Thinking out loud 001
(独り言)
2021/06/04
nora.icon(「のらてつ」の活動として)のらてつ研究所とTwitterとUnnamed Campの行き来しかしていない状態が月単位で続いている…。
nora.iconのらてつ以前のことだが、考えたことを言ったり書いたりしたときに、「へえー、なるほど」と言われることは時折あって、それもまあ嬉しいことではあるけれども、そこから誰かとの間に何かが発展していくということがあまりなかった。今は発展を感じるので楽しい。
nora.icon適当にあしらわれていたというのではなくて「読者はつくけど仲間ができない」という感じだった。
nora.icon前にうちあわせCastで言及していただいたのを聞いたときに、私が悪かったわけじゃないんだ、と思えました。
nora.icon他のScrapboxで「Unnamed Camp」についての記述があるか検索してみたが。
nora.iconUnnamed Campがカバーしている領域というものを、私はごく当たり前な感じで「ここからここまで」と認識するけれど(書き込んでいる人たちはみんなそうだと思うけど)、外から見たら「これは何なのか」がわからない可能性があるのか、とちょっと思った。unnamedなのだからそれはそうか。
nora.icon権力欲とか名誉欲とか支配欲とかそういうのがないので、そういったものがあってなんぼみたいな世界には一切近寄りたくない。「奪われるだけ」という感覚がある。何しろこちらは得られるものが少な過ぎるわけで、Win-Winにならない。
nora.icon「無視されたくない」と「ちやほやされたい」の間には割と途方もない距離がある。「孤絶が嫌」と「繋がりたい」も距離がある。
nora.icon「ひらく」ことを考えた場合、例えばそれが「開国」であるとすると、「鎖国」であった状態が「開国」した、ということがまず劇的なひらきなのだが、「じゃあ全世界と繋がろう!」とグローバル化までもをセットにされると無理だしまた鎖国したくなる感じがある。「そもそも閉じていない人」による「ひらかせる」はいきなりそこまでいくイメージがある(イメージに過ぎないが)。
nora.icon「なぜとじたか」なんですよね。全裸で踊ると開放的になれていいぜ、と言われたら十二単着たくなる。
nora.icon私自身にも「とじ」があるが、特別何かトラウマがあるというほどのことではなく、ただただ「他者が蹂躙してくること」「無神経の波動が迫ってくること」から逃げたくてとじていった。よって、私にとっての「ひらく」は、それらを完全に締め出した空間を見つけて身を置くことであると言える。
nora.iconその気持ちだけを取り出してしまえば宗教団体に所属しようとすることとほとんど変わらないと思うが、つまりはそうやって宗教団体は存続するのだろうし、私は多くの宗教団体が発する蹂躙の気配からも逃げたいのでたまたまそれらとは無縁だが、そういった組織に身を寄せたくなるという心境はわからないではない。
nora.iconUnnamed Campは記法が自由で気分でやれるところがいい。場所はScrapboxだけど「Scrapbox的」であることを強いる必要はないという感じ。
nora.icon要するに思索がリンクされたりされなかったりしながら活用可能な形で蓄積されていくことに意味があるのであって、コミュニケーションとして滑らかである必要はあまり感じないというか。
nora.icon滑らかである必要というか「規格化」される必要がない。UCに限っては規格化されなくともおおよそ滑らかである(と私は感じている)。
nora.icon具体的に解決すべき問題があってやっていることではないからだろう。一方で、企業のプロジェクトについての意見交換・伝達の場にするとかなら色々決めておいたほうが良いのだろうと思う。UCは意見交換によって豊かになっていくが、「意見交換のための場」ではない印象。
nora.iconみんなでブレスト!という感じ。それはみんなでブログを書くのとも違うし、みんなで雑談するのとも違う。発表の場でも社交の場でもない。(そういう場所が欲しかったんですよ〜)
nora.icon「そうでない場所」を見たことによって、「ああ、ここは本当に素晴らしいところなんだな」と思ったのであった。何も襲いかかってこない。誰にも襲われないし、自分の感情にも襲われない。絶望も諦観も感じないし、ただ楽しさだけがある。しみじみとした静かな楽しさだけどそれでいいしそれがいい。
nora.iconごく限られたコンテンツにだけハマる限定的オタクみたいな人間なんですが、限定的であれオタクとしての経験があるということから言うと、同じものを好きであるという理由で集まることほど罠を感じることはない。「何を好きか」ではなく「どう好きか」という「好きになり方」のほうが精神衛生上大事で、何を好きかはその後の話という感じがする。共通項を名詞で見出すと後が大変というか。
nora.icon「同じものが好き」というポジティブofポジティブな理由で集まっていながら喧嘩が発生したときのどうしようもない感じは本当にただただ地獄である…。
nora.icon「堂々とする」という表現があるが、なんとなく使い勝手が悪い言葉だなと思っていた。実際に堂々としている人は「堂々とする」ということによってそうなっているわけではないように思う。どちらかというと、対義語であろう「気後れする」「物怖じする」「及び腰になる」を成り立たせてしまう要素から自由であるということのように思えて、例えばそれが「尊敬する相手に対して一歩引いてしまわない」とかいうようなことだろうと思う。つまり余計なアクションをつい起こしてしまわないこと。
nora.icon読もうとしているブログが積みに積んであるという状態。ブログに限らず「読もうとしているもの」がそれはもう山積している。なぜか? 読んでいないからである!(今はちょっと本を消化しているところではある)
nora.iconさんざん書き込んだところで「このページは何か」という話をすると…
nora.icon『ボヘミアン・ラプソディ』、あれだけ話題になっていながら私は観ていなかったのだが、今日観てウウッとなった。細かい描写から色々と感じ取れる感性を養うことができていて良かったと思った。
2021/06/05
nora.iconScrapboxって「読むもの」としてはどう頑張っても読みにくいところがあるんだけど、見た目がカードだからかな? 「見るもの」としては見やすいんだけど。
nora.icon各ページを開いてしまえば大抵読みやすいが、開くに至らない。のら研では少しでも多く目に入れて全体像が分かるように概要を非表示にしてカードのサイズを小さくしているが、「読まれる」ためにはブログのようにむしろ概要をはっきり読める形にしたほうが良いんだろうと思う。
nora.iconが、それだともはやブログを書けばいいことになってくる。やはりScrapboxは個人にしろ共同にしろ自分自身が書き込む側にいてこそかもしれない。
nora.iconとはいえいろんな人が面白い話をしているので、読みにくさ馴染まなさは耐えて意識的に読んでいく必要があるなと思う。
nora.icon内容ではなく形式で探し当てられるとなんか若干恐怖を覚える。のら研以外の、Scrapbox自体の話を全くしていないプロジェクトを、Scrapboxを使っているという理由でチェックされているのを見てヒッてなった。(正確には、あちこちでそれがリストとして公開されているということに不安を覚えた)
nora.icon自分でそのプロジェクトを公開している以上はどういう見られ方をしても仕方ないし文句を言うのは筋違いだけども。「違う層」というものに対して結構怖さを感じる。
nora.iconここに私の「とじ」がある。
nora.iconというかむしろ、特定の範囲に向けて「ひらいている」ために、その外から覗かれていると思うととじたくなる。オジギソウみたいな。敵がいないと思ってひらいているが、触られるととじる。
nora.icon例えば「生理」について男性ゆえにわからないと言う人間がいるとする、更によくわからないくせになんだか意味不明な偏見をばら撒いているとする。その場合に言えるのは「生理とは~」の説明ではなく、「『生理 困る』でググれカス」ではないかと思った。
nora.icon女の側だって説明とかしたくないし説明されたものはいくらでもあるのでggrksで終了という感じ。
nora.iconあとこれって保健体育で習うはずなので「男だから全くわからん」が通用するものではないと思う。「不幸にも学校に通わせてもらえる環境になかったから全くわからん」なら仕方ない。が、偏見をばら撒いているということはインターネットに接続できるPCかスマホを持っているということなので、調べもしないで語るのはやはり許されない。
nora.iconなんでだかわからないが、なんとなく急に「枷が外れた」という感覚を覚えた。自分が一段階シンプルになったような感触がある。具体的にどこがどうと聞かれるとなんとも言えないが…。
nora.icon一言でいうと、「別にいーじゃん」と言える範囲が広がったという感じがする。別にいーじゃん、どうやったって。別にいーじゃん、私がそうしたいんだから。それを誰に言っているのかというと、「周りの人間」ではなく、自分自身にである。
nora.iconでもそのきっかけになったことは、なんかすごく頑張って決めているものを見かけたということだった。そういうふうに決めたくないな、疲れるな、と感じたついでに自分の秩序感もスッと手放したのかもしれない。
nora.icon「別にいーじゃん」と言って肩の力を抜いてやったことが、カオスの方向に行かなくなったという感じか。これまでのそういう自由を求める心の動きみたいなものは「無理した秩序に対する反発」であって、純粋な自由ではなかった。理想は、自分の心に従った自由な選択によって、結果として自分固有の秩序が見えてくること。結果として。
nora.icon融通無碍に一歩近づいたのかも。
nora.icon『知的生産の技術』という本の存在とその後の「知的生産」隆盛にも関わらず、世間一般の知性というようなものはまるで向上していないように見えるけれど、急速に酷くなったというのでもなく、1970年代の二十代は既にそうだったわけだ。(知ってた) nora.iconこの「(知ってた)」は「でしょうね」という意味です。
nora.icon急速に酷くなったわけではないが、悪化の一途を辿っているのは確かとは思う。そりゃあ、手本になる存在がまだいた年代が既にアホになっているのだから、もはや手本が身近にはいないという年代はもうどうしたらいいかわからないということにもなろう…。
nora.iconしかしまあ、「昔はもっとまともだった」ということが世で言われているほどあり得るのかどうかはちょっと怪しいところではある。賢い人は賢い人同士のコミュニティに属し続けて生きていたところもあるだろうし、年を食えばもっと違う種類の人間と邂逅することになり、そういう種類の人間は大昔からいたのだとしても「今はそうなっているのか!?」という気持ちになるような気もする。
nora.iconとはいえ、この文中で指摘されていることに関しては、梅棹忠夫がそのことに思い至らないはずはないだろうと思うので、実際悪化してそうなっている気はする。
nora.iconそういえば、Scrapboxのプロジェクトを色々見ていて思ったのは、自分は例えばUnnamed Campにいらっしゃるような方々とは思考の方向性が近すぎて(と勝手に思っていて)、好きだからと眺めて反応していると、今度は「そういう感じではない人」のことを想定するのが大変になってくるかもしれないということです。
nora.icon「そういう感じではない人」のことを眺めていたいかというとそれはあんまりという感じなので難しいところ。想像と異なることばかりな世界を追うのは大変というか。
2021/06/06
nora.icon(以下はこの問題に対するコメントで、staさん宛というのではないです)
nora.icon「真剣な恋愛」が「性交」と直結するのがおかしい。「真剣な恋愛」があり得るということを否定するのは難しいけれども、自我の発達というのは文化の問題というより人体の問題であって、今のところ「成人まで維持されたら本当であろう」と判断するしかない気がする。そのくらいの歳から付き合い続けて結果的に結婚している人も普通にいるだろうし。
nora.icon「自我の発達というのは文化の問題というより人体の問題であって」という表現は正確さに欠けてちょっと微妙だな。相関関係はある。ただ「こういう時代なんだからこうでしょ」という話で済む問題ではないと言いたかった。きちんと論じられるほどの知識が私にない。
nora.iconしかしながら、14歳という年齢がどういう状況であるかを考えず(あるいは軽視して)、18歳になるのを待つことすらできない大人というのは、大人として役割を果たしていないと思うし、性犯罪と区別することが不可能になってしまう。真剣?な割に相手の人生については無神経なんですねっていうか。子どもの側が「したい」と言ったとしたって、それにただ応じることが「尊重」ではないということを、大人は学ばなければならない。
nora.iconで、それはまあ13歳未満に対する話だったのを更に引き上げるかということだが、明確にこうなのでこうすべきですと判断するのが難しい話だと思うけれども、「ませている」を「精神的に成熟している」と扱うべきではないだろうし、今の中学生が遭っている被害を考えれば、中学生を含めることにするのを「おかしい」ということに妥当性は感じられない。
nora.icon(これは個人の感想ですけど、マジで気持ち悪いおっさんだなという気持ちは拭えない)
nora.icon言い分の根拠が変なんですよね。「中学生の意思決定や判断能力は脆弱」とすることに慎重になろうとすることに終始するならともかく、「年の離れた成人と中学生の子供に真剣な恋愛関係が存在する場合がある」を持ってくるのは無理があるのでは? 高校卒業までプラトニックで頑張ってほしい、現代の日本に生きるなら。自分で「子供」って言ってるじゃん。
nora.iconまず「同意性交」って、「私は君を愛してるからしたいんだよ、いいでしょう?」と言われて「うん、わかった」と言えば同意性交になってしまうと思うんだが、その「うん、わかった」にどれほどの責任を負わせられるかということだよね。大人の側を許すというのは、つまり子どもの側にその判断の責任があるということよね。性交は精神に於いて不可逆的な体験だけど、その重大さを判断できるのは何歳からなのか? その議論に「真剣な恋愛関係が存在する場合がある」というのは…。
nora.icon社会的に(というか共同体として)非常識だから追放する、ということができない社会になっているからもう今はそういうのを全て法律でコントロールしなければならない、ということに危険性があるのはそれはそう。
nora.icon性欲について考えている男性を複数見て、なんというか、とても大変なのだろうなと思った。反射的に心身に影響が出るという大変さ。
nora.icon私は半径1m以内に如何なる男性如何なる女性がいようが全く何も感じないのだが(その場合距離が近くて嫌だなというのは全ての人間に対して感じる)、それは多分かなりの「解放」なのではないか。
nora.icon(なお、これは私の性別がどうというより、私個人の性質としてそうという話)
nora.icon絶世の美女だろうが奇跡のイケメンだろうが、パーソナルスペースの内側にいられたら生理的に嫌だ。仮に触られたら殺意すら湧きかねない。性的魅力がどうこう以前の問題である。
nora.icon性の話からはもう離れてしまうが、私は他人のことを「私を侵略してくる可能性があるか否か」でしか見ていないのかもしれない。その可能性がある人間については、その人間の見た目や社会的地位etcがどうであろうと「無理だな」と感じる。
nora.icon『知的生産の技術』は、それを踏まえてその後に書かれた梅棹忠夫の文章も含めて考えないと不十分かもと思った。
nora.iconObsidianは自分に革命を起こしてくれたが、それによって、逆にObsidianが要らなくなってきた感がある。私はどこに流れ着くのか。
nora.icon要らなくなってきたというか、最初に革命を感じた領域が私の中でObsidianから離れつつあるという感じ。もう日記帳になってきてる。ZettelkastenをObsidianでやろうという感じではないかもしれない。 nora.icon最近挙動が微妙に重いんだけど、ファイル数のせいなのかなあ(画像がめちゃくちゃ多い状態)。PCも古くなってきているのでスペックの問題か。
nora.iconこれ、Chromeをウインドウ最大化した状態で見ていてObsidianに戻ったときとかに動かなくなる。Chromeを最大化しなければ大丈夫かもしれない。
nora.icon超どうでもいいけど、だいたいの下ネタはフフッ…となる(そういう点で潔癖ではない)。
nora.icon性犯罪臭のないそういうのは基本的に面白いものだと感じる。「被害者」の存在を感じるとウエッてなるけど、それはもはや「下ネタ」ではない何かという感じがする。
nora.icon言うなれば「キチガイ自慢」みたいになってくる。他者の尊厳なんかどうでもいいと言える私自慢的な。それを加速させるのは「強い私」のアピール競争であって、楽しさのためにやってるものじゃないよなと思う。(そういう嗜好というのならば、それが通じる仲間内だけでやるべきで、そういう趣味を持つ大抵の人はそれをわきまえているので無闇に外でそういうキツい話はしないものと思う)
nora.iconいやセクハラとか性的な話題の絡み方をされたらちんこもぐぞコラァ!!という気持ちになるけども。性に関わるユーモアは面白いので他人事として見聞きしたい。
2021/06/07
nora.icon同性愛者のことを何も知らない異性愛者または性的行為をするなら異性だけど打算で交際とか結婚とかしてるだけでそもそも恋愛感情をわかってない人間はお願いだから意味不明な持論展開してないで黙って自分の今日明日を考えててほしい。
nora.iconLGBTQの生きにくさは、結局マジョリティとされている人間たちが「人に恋をする」「人を愛する」ということをわかっていないからという気がする。支配欲所有欲や世間体、自己顕示欲で彼氏彼女作って結婚してるというのは、それは恋とか愛とかではないでしょ。
nora.icon個人的にはあまり用語的なものは使いたくないんだが、LGBTQといわゆるアライは「人に心を向ける、開く」ということをわかっている側、偏見を一向に取り下げないのはそれがわからない側、ということであって、結局は性的指向や性自認の違いでの対立じゃないわけじゃん。
nora.icon無神経な人間が勝つみたいなのは許せない。
nora.icon「個人的なこと」をどこまで書くか、というのはいつも迷うことである…。色々と開示している人を見るとつられて開示したくなるし、ほとんど開示していない人を見ていると自分の頭の中も一般化されていく感じがある。
nora.iconこのページ(Thinking out loud)は、だいたい一般化された思索を溜めていくものとして使っているScrapboxの中に用意した「開示の場」であると言える。わざわざこんなところまで見に来てくれる人、という範囲に開示したもの。もしTwitterに流してしまうとすると、思索を読みたくてフォローしてるのにあまり見たくもない自己開示を読まされることになる、みたいな状況が発生する可能性がある。 nora.iconTwitterで自己開示するのが良くないという話ではなく、基本的に思索の場として使っているから抱き合わせで読ませるとあんまり良いことなさそうという話。
nora.iconなぜ個人的なことを言いたくなるかといえば、まず自分を開示して特に否定されることもなく生きていけるという実感を得たいということ、そして個人的なことに絡んだ何かしらの主張があること、の2点がある。前者はまあ仕方ない欲求として、後者をどうするかというのが悩みになる。
nora.icon個人的なことに絡んだ主張というのは、自分が当事者であるから訴えたいというのもまああるけれど、それ以上に、「自分なら説得力を持たせられる」という意識に背中を押されている。こういう根拠があって言うのです、ということ。
nora.icon例えば、男が女について語っているのを見てなんだか微妙に勘違いがあるぞと思ったとする。すると、「自分は女だから、その勘違いを正すために言えることがある」という意識が働く。別に女全体の代弁をできるわけではないししたいとも思っていないが、少なくとも、女ではない側が女について語る中にある「女とはこう」の偏りに「必ずしもそうではない」と言うことならできるという感じ。
nora.iconだいたいのことについて「必ずしもそうではない」と言いたいがために自己開示してしまっている気さえする。偏見の批判・修正のために、自分の意見にはこれこれこういう正当性があるんですと言いたい的な。
nora.iconそういえば「悩ましい」を「悩んでしまう」の意味合いで使うのは誤用…とまでは言わないにしても「以前はそういう意味じゃなかったよね」というものなのだが、じゃあ今巷で「悩ましい」と表現している状態をそれ以外の表現でどう的確に言い表せるかと考えると難しく、まさに悩ましい問題という感じ。
nora.iconそもそも、官能的に心乱される状態を「悩ましい」としたことのほうがなんか不思議な表現だなあ。
2021/06/08
nora.icon「必要なものを自分で実装する」という楽しさを、プログラミング技術がほとんどない身でも味わうことができるからScrapboxのUserCSSはすごい。
nora.iconちょっとずついじれるというのがポイントで、一方ブログのCSSについて「これがこのブログのCSSなんですけどあなたが自由に書き換えられますよ、はいドーン!」ってやられると圧倒されてしまって何もできない。スクロールバーを見てもうお手上げになる。
nora.iconScrapboxとかObsidianはとりあえずCtrl+Shift+Iでデベロッパーツールを開いて要素選択して「その部分がどう書かれているか」を見さえすれば「ここいじれるんじゃね?」とわかり、CSSの体系的な知識が全くなくてもググりまくれば色々どうにかなるから趣味としてはすごくやりやすい。
nora.icon非公開プロジェクトなら、大胆にやってめちゃくちゃになったとしてもやばいことにはならないから安心。CSSを知っている人からしたら「いやそれはできんでしょ」と思うようなこともとりあえずやってみて「(よくわからないが)これは駄目らしい」と学習できる。そのうち「ああ、だからこれは駄目だったのか」と後れて気がつく。
nora.icon実際にのらてつ研究所に実装しているのは基本的に人に見せても問題ないであろうものだけど、そこに至るまでに色々トンチンカンな試行錯誤が繰り返されています。
nora.icon「ちゃんと本とか読んで体系的に勉強すれば早いよ」と言う人もあろうが、いやそりゃ早いけど「早い=楽しい」ではないのよ。私にとっては、「より多く、よりすごいことができる」が楽しいのではなく、「自分で発見して工夫できる」が楽しいのです。
nora.icon体系的に勉強したくなったらやる、そしてちょっとその気分が強くなってきたので本を入手したところ。
nora.icon「Outgoing links」、そうそうこれこれ、これが欲しかったんですよ~